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救われるために何をすべきか
ジョン・R・ライス著
What Must
I Do to Be Saved?
By John R. Rice
救われるために何をすべきか
再版にあたって、編集者からの挨拶
著名なアメリカの伝道師である著者ジョン・R・ライスは、1980年に天国に召されました。その孫である私は、1981年に来日し、それ以来日本の宣教師としてキリストの福音を伝えてきています。私はずっと祖父のこの有名なパンフレットを再出版しようと思ってきました。戦後初めて日本語に翻訳され、日本だけで二百万冊以上配布されました。また世界中に、40カ国語以上に訳され、4千万冊以上配布されてきました。私はこのパンフレットを日本人の救いのために捧げることを喜びとします。
ジョン・R・ハイムズ
2005年5月12日
救われるために何をすべきか
ジョン・R・ライス著
「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか。」ここに、もっとも簡潔な形で、すべての人が答えを学ばなければならない質問があります。もしこの答えを知らなければ、永遠に神のみもとを離れ、のろわれた滅びの苦しみを味わわねばならないのです。神に感謝すべきことには、この質問は神の御言葉(聖書)の中に、誰でも理解できるような簡潔の形で尋ねられており、そして答えがだされているのです。聖書の中には人の魂の幸福に関係のある質問がほかにもあります。また聖書の多くの箇所は救いの計画を明らかにしています。しかし、この言葉通りの質問がなされているのは一箇所しかありません。そしてそこに答えも与えられています。
パウロとシラスというキリストの伝道者たちがギリシャの昔ピリピという町で信仰のために迫害され、投獄されていました。真夜中に彼らは賛美と祈りを神にささげていました。突然、神がすべての獄舎の扉と、彼らの足かせとを、大地震によって破壊してしまわれました。哀れな看守は恐れおののきつつ、自分の罪深さを自覚して、この2人の伝道者たちのところへ来て、この質問をしたのです。聖書の使徒の働き16章29~31節をお読みください。
注:上記は聖書のことばで、「使徒の働き」は旧約聖書と新約聖書を通して全66巻のうちの1巻です。以下すべて「 」の部分は新改訳聖書からの引用です。
「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して、『先生がた、救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」
「救われるためには、何をしなければなりませんか。」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます。」ここに神の救いの計画――全世界に生を受けたすべての老幼男女のための神による唯一の計画があります。
私は何をすべきでしょうか
読者よ、あなたが救われるためにはあなたがしなければならないことがあります。この看守は自分の罪について理解し、おののきつつ、「わたしは何をすべきでしょうか。」と、道をパウロに尋ねました。それで、看守に希望が生じました。読者よ、あなたは罪人(つみびと)なのです。神の御言葉はその事実を終始一貫、強調しています。旧約聖書イザヤ書53章6節を読むと、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた。」とあります。
私たちはみな迷いさまよっている者です。罪人が自分は善人だと自己満足していることを、主なる神は喜ばれません。すべての男も女も幼児さえもが神の御前に罪人であることを、ローマ人への手紙3章は、何と明確かつ断定的に語っていることでしょうか。
「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』」(ローマ人への手紙3章9~12節)同じ章の22~23節に再び次の言葉、「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」と書いてあります。
こういうわけだからこそ、イエスはヨハネの福音書3章で、ニコデモに対して、「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」と言われたのです。(ヨハネの福音書3章7節)同じ章の18節で、イエスを信じない人が、すでにさばかれている、とイエスは言われました。
たしかにこれらの聖句は、神の御言葉を信じるすべての人に対して、彼が罪人であることを、キリストを信じて救われるまでは滅び行く罪人であり、救いを必要としているという事実を明らかに納得させずにはおきません。人の心は誤っており、神だけがそれを正すことができます。ですからもしあなたが救われることをお望みならば、あなたは自分の心で、「私は罪人であり、失われており、救いを必要としています。」とはっきり認めるべきです。自分が罪人であることを認めて、キリストに救いを求めることをしないで、救われた人は1人もいません。
キリストは、義人でなくを
救うために死なれたのです
願わくはきょう、あなたがこの真理に目覚めてくださるように!あなたは哀れな、失われた罪人、地獄に運命づけられた罪人なのです。あなたの心は真っ暗です。あなたは心をかたくなにし、神の呼び声に従わずキリストを受け入れませんでした。人の目から見てあなたがどんなに善良な人であっても、あなたは恐ろしい罪人であり、あなたがキリストのみもとに来ることをしない限り、あなたは地獄での永遠の運命を逃れることはできないのです。罪人――これこそあなたの呼び名です。心底からそれを認め、神に告白しなさい。あなたは罪人であり、世界中の何よりも、あなたは救われることを必要としているのです。
あなたがこのことを心の中で解決してしまえば、あなたは、「私は救われるためには、何をすべきか。」という質問の答えを学ぶ準備ができたわけです。
主イエス・キリストを信じなさい
ここに、神が備えられた単純な救いの道があります。あなたは罪人であり、あなたの心は誤っており、自分で自分を救うことができず、すでに裁かれています。救われるためにあなたのなすべきことは、この問題に関しては、単純に主イエス・キリストに信頼することです。あなたが主イエスに信頼しさえすれば、神の約束が与えられます。すなわち、「あなたは救われます。」
私の言っている意味は、「神が存在する」とか、「救い主は存在する」とか、いうことを単に信じれば良いと言うことではありません。そんなことは悪魔でさえも信じて、震えおののいています。(ヤコブの手紙2章19節)
ある医者がすばらしい名医だとあなたが信じていても、実際にあなたが病気になったときに、その医者の診療を受けなければ無意味です。ある弁護士が優秀であると信じていても、あなたの事件を彼に依頼して彼をあなたの弁護士としなければ無意味です。同様に、あなたがイエスについての真理を単に信じれば良い、というのではありません。あなたは彼を信じ切るべきです。すなわち、彼に頼り、まかせ切り、信頼すべきなのです。あなたがそうするとき、あなたは救われるのです。
善行によっては救われません
もちろん、あなたは神の救いを受けるに値する者ではありません。神の救いを受けるに値する者となるために、あなたが自分でできる行為は1つもありません。あなたはモーセの十戒を守ることによっては救われません。というのは、聖書が明らかにしているように、あなたはすでに十戒を破ってしまっているからです。ローマ人への手紙3章20節は、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」と言っています。
同じことがガラテヤ人への手紙3章11節で次のように語られています。「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。」
数え切れぬ多くの聖句が、何度もくり返して、「人間の善行によっては、救いはない。」ということを語っています。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトスへの手紙3章5節)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2章8~9節)
こういうわけで、だれも救われるに値する人間はいないこと、誰も自分自身を救うことはできない、と言うことを、私たちは認めるべきです。救いは無代価でなければなりません。そうでなければ、罪人は決して救いを得ることができないからです。実のところ、罪のための支払いには、血の代価が必要でした。聖書は言っています。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦し(ゆるし)はないのです。」(ヘブル人への手紙9章22節)
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ人への手紙5章6節)
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)
キリストの12弟子の1人ペテロは、私たちすべての者は、キリストの血によって贖われたのだと言っています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロの第1の手紙1章18~19節)
旧約聖書の時代、キリストがこの世に来る前に神殿の祭壇に捧げられたすべての小羊、雄牛、雌牛、山羊、はとなどは、このことを象徴的に描いていたのです。すなわち、有罪である罪人であって、その罪のために罪なき者の血が流されなければならなかったと言うことです。罪なきイエス・キリストが、私たちの罪のために死なれました。神に感謝すべきことには、こうして救いが全世界の人のために買い戻されたのです。もし、私たちがその救いを受けるとするならば、それは神の無代価の賜物としていただくことができるのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)
愛する読者よ、教会の会員になることをとおしてあなたは救われません。バプテスマ(洗礼)を受けているとしても、それで救われているとはかぎりません。バプテスマはだれをも救わないし、そしてだれもバプテスマで救われた状態を保つことはできないのです。バプテスマ自体は、すでにキリストを救い主として見出した人々が守るべき行為なのです。道徳的生活、どこかの組織の会員となること、善良な市民であること――これらは救いをもたらす力を全然持っていません。なぜなら、私たちが救われたのは、「私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに」であるからです。(テトスへの手紙3章5節)ですから、あなたが行なう行為に寄り頼まないで、キリストがなされたこと、そしてあなたのためになそうと約束しておられることに、信頼しなさい。
悔い改めについてはどうでしょうか
聖書は私たちが悔い改めなければならないと言っているのではないのでしょうか。そのとおりです。聖書は明白に、「神は、…今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」と言っています。(使徒の働き17章30節)また、「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」とも言われています。(ルカの福音書13章3,5節)
人は悔い改めるべきだ、と言うことが、バプテスマのヨハネ、またイエス、そしてペテロ、さらにパウロの宣べ伝えたことです。そして、悔い改めはたしかに神の救いのご計画なのです。しかしながら、ここで問題になるのは人々は悔い改めの真の意味を誤解してしまったということです。その結果、悔い改めとはある一定期間罪のために嘆き悲しみ、泣くことだというような考え方が生まれてきました。
この考え方は、「悔い改めよ」の代わりに、「痛悔せよ」と翻訳するドウェー聖書翻訳から生まれました。これによると、人は聖書からの救いの方法が教えられるべきである、リバイバル集会の懇願の場所は、「悲しむ者の座」、となってしまいました。そして、嘆き悲しみを通らないかぎり、神は人の祈りを聞き、その罪を赦されることはありません。何千という人がそう教えられました。
どうぞ誤解しないでください。神はあなたが罪に対して悔い改めた、砕かれた心を持つことを熱望しておられます。あなたは神のみもとから離れています。イエスの血潮の結果を足げにして、決して再び生きることのできない貴重な人生をむだに過ごしました。あなたは父である悪魔に従っています。だから、あなたが嘆くべきことは山ほどあります。あなたのつくり主なる神と、あなたのために死なれた救い主に対して、あなたがかくも理不尽な態度を取って来たことについて、あなたが心の中に深い恥と悲しみを抱かれたとしても、私は驚きません。思わず涙があふれ出たとしても驚きません。しかし、あなたにはっきり知っていただきたいことは、涙を流そうが流すまいが、心の中にどれだけ深い悲しみを持とうが持つまいが、これらのことはあなたを救うことはできないという事実です。
あなたは自分の罪を悲しみ、恥ずべきです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」(コリント人への手紙第2・7章10節)正しい悲しみは直ちに悔い改めに導きますが、嘆き悲しむこと自体は悔い改めではありません。
「わが、にるるとも、
わがのは、をらず、
もも、をうにわず、
いはただ、いよりるのみ。」
悔い改めるとは文字通りには、神に対して、また罪に対して、精神と霊の変化を体得するということです。熱心に、かつ心底よりあなたの罪から離れ、イエス・キリストがあなたを救ってくださると信頼することです。このように、キリストを信じる人は悔い改めるのであり、悔い改める人はキリストを信じるのです、ということがわかるでしょう。看守は罪から離れて主イエス・キリストを信じたときに、悔い改めたわけです。
瞬間的な救い
看守はある一定期間、嘆き悲しむなどということをしませんでした。「主イエス・キリストを信じなさい。」と言うすすめが彼に与えられました。彼はそのとおりのことをして救われ、同じように、その夜同時刻には彼の全家族も救われたのです。新約聖書のどの箇所を見ても、人々は嘆き悲しむ期間を過ごすことなどなく、何らかの過程も通ることなく、みな瞬間的に救われていることがわかります。ザアカイは木に登り、下を通られたイエスに出会って信じ、急いで降りて来て、喜んでイエスを家に迎え入れました。(ルカの福音書19章6~9節)イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われました。
ペテロがコルネリオというローマ軍の百人隊長とその家族全体に対して、信じるならば救われると語ったとき、聖書は次のように言っています。「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(使徒の働き10章44~48節)こうして喜びのうちに彼らはみな救われたのです。
隣の十字架上の強盗は実に邪悪な罪人であり、数分前までイエスに悪口雑言を浴びせていたのですが、イエスに道を求めて瞬間的に救われました。(ルカの福音書23章42~43節)ヨハネの福音書1章35節から49節までに、アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルなどという人たちが、キリストへの信仰によって1人ずつすぐに回心していることを、読むことができます。聖書の中には、人が救われるために、イエスを信じる前にまず持つべきだとか、罪のために嘆き悲しむべきだなどと、教えられている記録は1つもありません。キリストを信じる人はすでに悔い改めているのです。悔い改めと信仰というのは、同じことが別の言葉で言われているにすぎないのです。両方とも長い時間や嘆き悲しむ過程を必要としていません。
救いは瞬間的です。あなたがきょう救われることの邪魔をしているのは、罪にしみついているあなたの邪悪な心であり、救いを求めてイエスのみもとへ走り寄ろうとしていないことです。今すぐに恥と悲しみのうちに罪より離れ、キリストを信頼して救われてください。
祈らなくても救われるでしょうか
聖書の中には十字架上の強盗や神殿での取税人(ルカの福音書18章9~14節)のような祈りを捧げた多くの事例があります。事実、ローマ人への手紙10章13節は次のように言っています。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」
多くの人々は、意識的に神を呼び求める祈りの時を持たなければ、罪人は救われないと信じています。しかしながら、聖書は罪人が救われるためには、必ず祈らなければならないとは言っていません。実際、ローマ人への手紙10章13節の後に、神を呼び求めるのは心の中の信仰のあらわれなのであり、信仰こそその問題を真に決定するかぎであることが説明されています。もう一度読んでみましょう。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。」(ローマ人への手紙10章13~14節)
主なる神は罪人が祈ることを願っておられ、罪人が祈るとき救いを求めてイエス・キリストを信頼するならば、罪人の祈りを聞き、また答えられます。主は十字架上の強盗の祈りを、神殿で祈った取税人の祈りを、盲人のバルテマイの祈りを、それぞれ聞かれました。しかし聖書は、「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。」と言っています。たしかに、救われる人はだれでも、まず信じなければなりません。祈りというのは信仰のあらわれです。どんなに長い間祈っても、もしキリストを信じなければ、人は決して救われないのです。もし意識的に祈らなくてもキリストに信頼しているならば、彼はすでに救われているのです。救いの計画とは、1つしかありません。罪人が救いを手に入れるために取るべき歩みは1つしかありません。その歩みとは、主イエス・キリストを信じると言うことです。
ある教えで、神はがんこな神であるから、神が祈りを聞いて罪人を救われるには、多くの涙と大きな叫び声、また長い悲しみの時が必要であるという印象を、世間の罪人たちに与えてしまっているようです。神は罪人が救われようがどうしようが構われない、また罪人のほうがまず何とかして神の御心に触れ、神の赦しを得るための努力をしなければならない……というような印象を与えています。これはいつくしみ深い聖なる神に対して、何という悪意に満ちた中傷でしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)人の罪はすでに支払われており、救いを求めるいかなる罪人からも、神の怒りはすでに遠ざけられているのです。罪人の救われたいという願いよりも、御父ならびに御子がすべての罪人を救いたいと願っておられる御思いのほうが何百万倍も強いのです。感謝すべきかな!私は罪の赦しを神に乞い求める必要はないのです。私が進んでキリストに信頼しさえすれば、神は瞬時に私の罪を赦されるのです。
いかにして心の変化を得るか
この信仰によって救われるという道は、実にたやすい道に思えますが、まったくその通りです。ある罪人は、「しかし人間は心を変化させなければならないのではありませんか。」と言うかも知れません。
愛する罪人のみなさん。それはそのとおりです。しかしそれは神の側の仕事です。イエスはニコデモと言うユダヤ人の指導者と語っておられるとき、「あなたがたは新しく生まれなければならない。」と言われ、同じ箇所で主イエスはニコデモに、いかにしたらこの新生ができるかを語っておられます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
あなたの心の変化は神のなさる仕事であり、神は確実にその仕事を遂行されます。あなたの側のなすべきことは、単純に主を信じるということです。あなたが主を信頼し、信任するとき、あなたの永遠の救いのために必要なことは、すべて主が責任を持たれます。
私はどんな気持ちでいるべきでしょうか
ある人々は、心の変化というものは気持ちの問題だと考えています。またある人たちは、自分の欲している神秘的な気持ちになるまでは、キリストを救い主として受け入れようとしません。ここで悪魔に欺かれないでください。私は宗教は心で感じ取ることのできるものであることを信じます。日々、私の心に神が与えてくださる喜びを、神に感謝します。しかし聖書のどこにも、人が救われる前にどんな感じを持たねばならないか、などということは書いてありません。実際、人の感じはそれぞれ違っています。救われた人によって、感じはいろいろ変化しています。ある人は救われたときに泣き、ある人は笑い、ある人は神への賛美を大声で叫びます。それぞれの人の救いの体験は、本質的には同じなのです。あなたが願っているものは、まず救われることなのであって、その後どんな感じが来ても満足すべきです。大事なことは神に罪赦された身となることです。
もう1つ大切な事実をも注意してください。それはあなたの状態が正しくなければ、あなたの感じも正しくないということです。あなたが主を信頼するまで、喜びは来ません。薬の効果は飲んでみなければわかりません。イスラエルの人々がシナイの荒野を放浪したとき、燃える蛇に咬まれて死にそうになりました。彼らは棒の上に掲げられた青銅の蛇を見上げるまではいやされず、またいやされたと感じることもありませんでした。(民数記21章6~9節)人は感じによっては救われません。キリストを信じて救われるのです。放蕩息子は家を遠く離れた豚小屋の中で、立ち上がって父のもとへ帰る決心をしました。しかし彼の気分は勝れませんでした。靴もなく、ボロを着て子としての身分を示す指輪もなく、父の赦しのしるしは何一つなく、飢えのために死にそうでした。しかし彼は立ち上がり、父の所へ帰りました。彼の感じた気分によってではなく、父親への信頼から彼は行動したのでした。神に感謝すべかきな。彼の父親は彼を迎え入れました。同様に、神はすべてみもとに帰って来る罪人を迎えてくださいます。(ルカの福音書15章11~32節参照。)放蕩息子は父がもうけた宴の席にすわったとき、彼は平和の福音の備えの靴を足にはき、キリストの義の衣を身につけ、指には子の身分を示す指輪をはめ、父の右側にすわって肥えた子牛の料理に舌づづみを打ちました。その時、彼は父の愛に包まれて実に愉快な気分を感じていました。感じは、このように救われた後にやってきます。どんな感じを持つかということは主イエスにお任せして、きょう信仰によって救い主のみもとにお出でなさい!!
あなたは救われた後、主の道に従ってバプテスマを受けるとか、神の御言葉を学ぶとか、他の人の魂をキリストに導くとか、その他キリストに喜ばれる道を歩むことによって、平安と喜びに満たされることができます。クリスチャン生活の喜びを得るために、あなたは日々、幾度も主のみもとへ行くことが必要です。しかしあなたの救いは、あなたがキリストを救い主として単純に信頼したとき、一度に、そして完全にあなたの上に成就しているのです。
みんなの前での告白についてはいかがですか
救われた人は1人残らずキリストをみんなの前で告白すべきです。マタイの福音書10章32節、ローマ人への手紙10章9節は、私たちがキリストを救い主として言い表わすように、神も私たちを神の子として言い表わしてくださることを、明らかに教えています。しかし、私たちはすでに心に信じたことを口で言い表わすのです。その事がらについては、ローマ人への手紙10章10節は、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と言っています。
キリストをあなたの救い主として告白することは、あなたがすでに心の中で彼を信じているということを証明します。救いを約束している聖書の他の言葉についても、同じことが言えます。ヨハネの福音書6章37節、「そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と言っています。
またヨハネの福音書1章12節では、イエスを受け入れた者に救いが約束されています。しかしイエスを信じないで、イエスのもとへ行くことはできません。ヨハネの福音書1章12節は、イエスを受け入れることは、イエスの御名を信じることと同じであることを示しています。
愛する罪人よ。このことをむずかしく考えないでください。あなたと主イエスとの間では、1つの単純な段階があるのみです。あなたが彼に信頼するとき、他のすべては解決されるのです。あなたはすでに悔い改めているのであり、キリストのもとに来ているのであり、彼を受け入れているのであり、救われるために必要なすべてのことをすでにしているのです。使徒の働き16章31節を文字通りに、そのまま受け取ってください。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
数多くの聖書の言葉は、信じる者に救いが約束されている事を明らかにしています。次に掲げた聖句を注意深く読んでください。そして、罪人が主イエス・キリストを信じるとき、彼が必要とするすべてのものを主が約束しておられるのを、幾度もくり返して読んで理解してください。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1章12節)
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章14~16節)
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネの福音書3章18節)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3章36節)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネの福音書5章24節)
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネの福音書6章40節)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネの福音書6章47節)
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒の働き10章43節)
「信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(使徒の働き13章39節)
私たちが冒頭に引用した聖句をもう一度お読みください。「救われるためには、何をしなければなりませんか。」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16章30~31節)
偉大な医者イエスを信じなさい
あなたが病気で死にそうになったら、そしてもしあなたに信頼できる優秀な医者がいたら、あなたは自分自身を彼に任せて必要な治療を受け、天の助けと共に健康を取り戻そうとしないでしょうか。ちょうど同じように、キリストに信頼し、あなたの救いのためにキリストに寄り頼み、彼にすべてをお任せしなさい。あなたの体の病気のときに医者を呼んで彼に任せてみようとする同じ信頼によって、あなたは主イエス・キリストを呼び求めてあなたの罪の赦しと魂の救いを彼に任せることができます。彼は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(ルカの福音書5章31節)主イエスこそ偉大な医者であり、あなたが信頼した瞬間、あなたの罪に病む魂をまったくいやしてくださいます。あなたが医者を信頼し、彼の治療に自分を負かせ、良き結果を期待して彼を頼るように、魂の事がらについて、きょうイエスに信頼しなさい。人間の医者は、むろん、しばしば失敗します。彼らの効果は最善であっても暫時的です。ですから、この世の医者たちには、完全にイエスの模型となりうる者はいません。医者は奇蹟を行なうことはできません。しかし、イエスは奇蹟を行なわれます。哀れな難破状態にあるあなたの心に必要な変化を、あなたの側のこれ以上の努力何一つ必要とせずに、あなたが信じさえすれば、直ちに瞬間的にあなたの心にもたらしてくださるのです。
イエスこそ私たちの弁護人です
もしあなたが犯罪を犯して留置場に入れられたとしたら、あなたはまず第1に、信頼できる弁護士を呼んで、あなたの事件全体の弁護を彼に依頼することでしょう。神の目から見れば、あなたはすでに告発された罪人であり、神の怒りが日々あなたの上にとどまっています。しかし神の正義の御前に、私たち哀れな罪人、犯罪人の弁護士となってくださるお方を、神は備えてくださいました。そして、イエスこそ私たちの弁護人なのです。聖書は言っています。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(ヨハネの第1の手紙2章1~2節)
イエスはただあなたの事件を弁護する弁護人となってくださるだけではありません。彼はすでに刑罰を支払われたのであり、あなたは完全に彼を信頼して罪を赦され、義としていただくことができます。あなたが優秀な弁護士に弁護を頼ん{ |